サービス ⇒ 奉仕
意味:)人のための力を尽くすこと。客をもてなすこと。値引きしたり、おまけをつけたりすること。(gooより)
昼下がりの家電量販店にて
店員「いらっしゃいませえっ!ご来店ありがとぅーございまーすっ!」
おばちゃん「ちょっと店員さん店員さん、この炊飯器、あっちのお店だと900円も安かったわよ! 私知ってるのよ、ちょっとサービスできるでしょ?」
店員「そうでしたか、うーん、分かりました。それではこれでいかがでしょう?」
(先ほどより1,000円安い)
おばちゃん「あらそう?すまないねぇ、それとそれと店員さん、ちょっとちょっと」
店員「はい、なんでしょう。」
おばちゃん「この炊飯器、ほんと、もう、あと一歩で買おうと思うんだけど、なんでもいいから、つかない??ねぇ?、ね!?」
店員「・・・、そうですねぇー、少々お待ちくださいね。・・・・・分かりました、何とか頑張って、このオンオフスイッチ付きの延長コードもサービスしちゃいます!これで宜しいですか?」
おばちゃん「あら本当?それじゃあ買うことにするわ。」
店員「ありがとうございます!このままお持ち帰りされますか?」
おばちゃん「もういやーねぇ、こんな重たいもの持って帰れる訳ないじゃない。気が利かないわねぇ。」
店員「いやあすみません、では送・・」
おばちゃん「ところで店員さん店員さん。」
店員「はい?」
おばちゃん「もちろん送料もサービスよねっ!?」
サービスの本質
サービスの本来の意味とは、奉仕することです。
誰かが笑顔になるように、誰かが楽しく暮らせるように。
自分の時間やお金を使って与える行為が、サービスの本来の意味でしょう。
少なくとも受け手が要求するものではないです。
では何故上述のような光景を目にするのでしょうか。
それは、サービスというカタカナ語の育て方を間違った為、と私は結論づけています。
「サービスしてよ。」と「奉仕してよ。」を比較してみましょう。
奉仕の方がその為に無償で働く人の存在を感じとる事ができ、自然と無理な注文はお願いにしくい。
誠実に育った言葉、というイメージを持てます。
他方、サービスはその無機質感から、平然と無理な注文ができそうです。
無責任に育てられた、芯のない言葉と感じます。
二宮尊徳翁の話
奉仕という大和言葉が最も相応しい方の一人は、二宮尊徳(二宮金次郎)翁でしょう。
小学校に銅像として置かれているのは努力の人だからではなく、それ以上に奉仕の人だからです。
(小学校の先生は教えてくれませんでした)
そんな翁(おきな)のお話で、私が好きなお一つご紹介いたします。
「ここに水の入った、たらいが一つある。このたらいを二人で持ったとしよう。
その一人が水が欲しくて自分の方に引き寄せようとしたら、水はどうなるか。
水は相手側にこぼれるだろう。
それでは、もしその水が欲しいが相手にあげようとして、たらいを押したらどうなるか。
その水は自分の方にこぼれてくるだろう。」
Give and Take
あえて見出しが英語なのは、英語圏でも奉仕が顕著だからです。
先ほどのたらいの話の如く、ギブアンドテイクも「与えて、受け取る」です。
テイクアンドギブとは言いません。
興味深い情報ですが、アメリカの1人当たりの平均寄付額と日本のそれでは、なんと11倍も違うそうです。
日本はお上(おかみ)が所得再分配しているだろ!とツッコミが入りそうですが、それでも個人の奉仕への意識の差は大きいと思います。
でもあの東日本大震災を契機に、私を含め大和民族は奉仕の心を取り戻している感じがします。
私も負けじと募金道を続け、与える人になっていきます。
大和琴馬